猫
僕はもうずっと馬鹿になったみたいにいつもいつもただひとつのことだけをずっとずっと考え続けている。
それはあまりにも苦しくて、あまりそのことばかりを考え続けていると、僕は息が出来ないような気分になる。
今朝、通学途中の道ばたに猫が居た。貧相な黒猫だ。
ろくに餌も食べていないのだろう、痩せて毛並も悪い。
普段は動物なんて可愛いと思ったりしないのだが、その猫があまりにみすぼらしくてみっともなかったのでついなんとなく撫でてやろうという気になって手を伸ばしたら、黒猫はふいとそっぽを向いて消えていった。
なんだあいつ。人がせっかく可愛がってやろうとしたのに。
腹立たしく思いながら駅の階段をあがったところで「新商品でーす」といいながらアルバイトの女が販促用のチラシが付いたサンプルを差し出した。
黒猫のことを考えていたから不意を突かれて、サンプルなんて普段は絶対に受け取らないことにしているのに気がつけば僕の手の中にチョコレートのサンプルがあった。
袋に書いてあった文字はこうだ。
『チョコレートは甘くて苦い恋の味』
甘くて苦い恋の味?
頬がひくついた。
それは、チョコレートという食べ物に対するステレオタイプなイメージを拾い集めてそのまま文字にしたような凡庸なコピーだった。極端な凡庸さはときとして死に値する犯罪だ。だいたい僕はチョコレートなんか好きじゃない。あの甘ったるい味や匂いが鼻につく。それは鼻孔の奥の神経経路を伝って大脳辺縁系に這入り込み僕の海馬を刺激する。忘れたくても忘れられない記憶を。思い出すことしか出来ない思い出を。
無造作に鞄の奥底にサンプルを突っ込んで僕は歩き出した。
鞄に放り込んですっかり忘れた筈のそのチョコレートと再会したのは、ゼミが終って誰もいなくなった研究室でパソコンを仕舞おうとしたときのことだった。ノートにひっかかって出てきたそのチョコレートにはチラシが貼り付いており、そこにはさっきは気がつかなかったがアイドル流河旱樹がクールに微笑んでいた。
チラシに印刷された流河旱樹の顔はTVでみかけるのと全く同じ気障な笑顔で、「似てる」と言われたことも幾度となくあるが、こんな頭の軽い男と一緒にされちゃ適わない。
苛々した気分になってチラシを引き剥がすと、僕はボールペンで流河旱樹の顔にひげを書き眉毛を太くして鼻毛を書き思う存分陵辱した後、ボールペンの先でその王子様気取りのつくり笑顔を黒々と塗り潰した。
ボールペンの先は結構細いので、何かを塗りつぶすには向かない筆記用具だ。
がりがりがりがりがりがりがりがりと何度も何度も穴が空くほどペンの先で引っ掻いたあと、真っ黒なブラックホールみたいになった流河旱樹の顔をカッターナイフでずたずたに引き裂いて破いてからプラスチックごみの分別箱の中に捨てた。
その日の夜、帰宅する途中の道ばたでまた今朝の黒猫に出くわした。
黒猫は家の前の電柱の根元に座ってじっとこちらを見ていた。相変わらず痩せて貧相な顔をしていた。その黒い目だけがぎらっと宝石のように暗闇の中に光っていた。
僕はふと思いついて、今朝方サンプルで貰ったチョコレートをポケットから取り出してそいつに向かって投げてやった。猫はふんふんとその臭いをかぐと、舌の先で器用にチョコレートを掬い上げペロリと舐めた。その味がお気に召したのか、猫は喉を鳴らすとゆっくりと立ち上がり僕の足元にするりとまとわりついてきた。
その滑らかな動きと言ったら!
僕はぞくっと背筋が震えるのを感じて猫を見下ろした。
猫は僕のふくらはぎに頚をすりつけた。ベルベットで撫でられるような毛の感触がズボンの布地越しに伝わってきて、その感触が副交感神経を刺激して僕は思わず勃起した。まるでそのことに気付いたかのように猫は僕を見上げて笑い、にゃあん、と甘えた声で鳴くもんだから腹が立ってズボンの裾にまとわりつくのを靴の先で思いきり蹴りあげてやった。
猫は弾かれたように空中に飛び上がって落下して地面にべしゃっと叩きつけられると、何か汚いものをげっとはきだしてそのまま動かなくなった。
玄関のチャイムを鳴らすと女が出てきて「おかえりなさい」と言って抱きついてきた。僕は「ただいま」ともなんとも言わずに女を押し倒した。
忘れたい、忘れたい全部。
柔かい肉が腹の下でぶよぶよと蠢く。
僕は女の下着を脱がしてうつぶせにした腰骨を抱えあげ、指を後ろの穴に突っ込んだ。痛いからやめてと女は泣いたが僕は構わず、今度は勃起した性器を突っ込んだ。
そのきつい穴の中で締め付けられているときだけ、僕はいろんなことを忘れられる気がする。あの黒い目が少しだけ遠ざかる気がする。
夢中になって腰を動かしているうちに僕はだんだん興奮してくる。酸欠で頭がぼうっとしてくると、身体の下で喘いでいるのが誰だかわからなくなってくる。息切れと喘ぎ声と下半身の快感だけが頭を支配して、僕は馬鹿になったみたいにただひとつのことだけをずっとずっと考え続けている。あまりにもそのことだけを考えているので、そのうち僕は息が出来ないような気分になってくる。そうすると僕の絶頂は近い。
朦朧とした意識の下に暗い二つの穴が見える。僕を呑み込む黒い穴が。
竜崎、と最後に呻くように息だけで喘いで僕はその暗い穴の中に射精した。
竜崎が死んでから僕は何人かの女と寝た。一桁だったか二桁だったか…、詳しい数や種類は忘れたが、大抵は二、三度限りの関係で終わった。何かのはずみでことに及んでも、射精し終わった途端に虚しくなるばかりだった。その中にたまたま後ろで犯られるのが好きな女がひとり居て、それが気に入ったから何回か続けてその女とアナルファックをしていたが、ある日突然の交通事故で死んだ。
…まあ、原因はわかってる。
理由もわかってる。
本当に女ってやつはどうしようもなく下らない生き物だ。
さっきの話に戻るが、勿論実際には僕は猫を蹴ったりしていない。
公共の場で猫を蹴ったりしたらどうなるか。誰が見ているかたまったもんじゃない。常にどこからどう見られても品行方正なエリートだ。僕はそんな馬鹿なことはしない。
あれはただの僕の妄想だ。
だから今、薄暗い部屋のソファの上に誰かが座ってじっとこちらを見ているような気がするのも、その目が暗闇の中に黒くぎらっと光っているような気がするのも、全部僕の妄想なのだ。
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久々のサイト更新がほんとに嫌な話になりました。どうもすみません。
年齢制限はエロさではなく虐待とか女性相手という観点からつけました。
二部の月の心の中はこんなイメージです。