海と死神




「これが海か」
 しわがれた死神の声に貝殻を探す手を止めて顔をあげたニアの目の前には、灰色の海が広がっていた。
「海を見るのは初めてですか、リューク」
「ああ、初めてだ」
「死神界に海はないんですか」
 いや、とリュークは頭を振った。
 死神界にも海はある。だがそれは死神界のはずれのどこか遠い遠いところにあって、誰もそれを見たことはない。かつて変わり者の死神が海を見ようと思い立ち、旅に出たきり帰ってこなかった。そんな話をリュークはきいたことがある。
「物好きな死神がいたものですね」
 まったくだ、とリュークは黒い翼を震わせて笑った。
 大きな黒い翼と、その隣で波にさらわれてしまいそうな白い小さな後姿を、ジェバンニは砂浜の後方に停めた車の脇に立って眺めていた。
「海まで車を出してください。死神も同乗させます。」
と、ニアに言われた時、ジェバンニはこれも自らの職務の範囲なのかと考えずにはいられなかったが、しかしそんなことには既に慣れっこになっている自分に気付いてもいた。
 そうして、死神とLと言うとんでもない組み合わせの後姿を 、こんな風に眺めることにもいつのまにかもう慣れている。慣れないままにこんな環境に身をおこうとするならば、食事も喉を通らないに違いない。今日の夕食に何を食べるかを考えることが出来るほどには、ジェバンニはこの環境に慣れてしまっているのだった。
 ニアは「死神」というものを知ってから、その存在にそれ相 応の興味を示した。まだ見たことのない玩具を目の前にする時 と同じ目をしていて、それはデスノートをはじめて目の前にした彼の反応となんら変わらなかった。そのノートをつかって人の命をすべて支配してしまうという不可思議な生き物に、彼が興味を示さないはずもなかった。事件が収束した後、死神はリンゴが好きなのだとききつけると、ニアはいくらでも差し上げ ますから、少しここに残って話でも聞かせてくださいませんかと言い出した。そのとき、誰より近くで彼を眺めてきた自負のあったジェバンニは、少しも驚かなかった。
「随分と死神に興味があるんですね」
 だからハンドルを握りながらジェバンニがニアにそう尋ねたの は、正確にはニアへの質問ではなく、死神という不可思議な存 在がニアの興味を惹きつけてしまうという不公平さに対する遠 まわしな不満を述べたに過ぎなかった。
「ジェバンニ、あなたは知りたいと思わないのですか。死神について、彼らが暮らしている死神界という未知の世界について 」
「残念ながら」
 ジェバンニは握ったハンドルがぶれない程度に軽く肩をすくめた。上流階級に育ち、ごく一般的な知的エリートとしての教育を受けてきた彼は、神を全く信じない無神論者ではないが、進化論を否定して「この世は神が創りたもうた」と盲信するほど敬虔なキリスト教徒でもない。正直なところ、出来るならば死神などという訳の分からない存在とは積極的に関わり合いになりたくない。
「私にとっては死神のことよりも、ニア、今晩の夕食に何を作ってあなたに食べさせようかということの方が大事な問題です 」
「俺はリンゴでいい」
「私もリンゴで構いません」
 死神め余計なことを、とジェバンニは心の中で噛み潰した苦虫 を飲み下すと、ハンドルを大きく右に回した。
「着きました」
 目的の海につき、適当に車を停めてからジェバンニが告げると、自分でのそのそ後部座席のドアを開けながら
「ご苦労様でした。ジェバンニも来ますか」
 気のない様子でニアがたずねた。
「いいえ」
 答えながらジェバンニは、自分が「いいえ」と答えることニアは知った上できいているのだろうと思い、そう思えば無理に飲み下したはずの苦虫が、またちりちりと胸の辺りに湧いてくるのが分かる。そうして舌打ちしそうになるのを堪えるのに、 要らぬ力を使う羽目にもなるのだ。
「そうですか、ではあなたはここで待っていて下さい」
 人間と同じように、開けたドアから出入りする必要もないはずの死神は、なぜかニアの後からゆっくりとついて出る。
「リンゴが嫌なら、私はあなたの好きなものを黙って食べます」
 そういい残して去ってゆくニアの姿も、それを覆うように後に続く死神の姿も、今は目の端にさえ映したくないと思うのに 、ジェバンニにはそんな事すらできなかった。
「もっとも俺には、お前の方が物好きに思える」
 ちゃんと車に乗せて運んできたリンゴを齧りながら、リュークはニアを見下ろす。
「お前、目の前で俺がライトを殺したところだって見ただろ」
 むしろ仕向けたのはお前だったかと、リュークは独特の笑い声をあげた。
「そばに置いておくことを、私が恐がるとでも思いますか」
 リュークの言葉が暗に含んでいる意味を受け取り、そう返したニアは、貝殻を探す手を止めもしない。
「あなたが私を殺す理由などありません。そうじゃありませんか」
 ようやく欠けのない、シンメトリーの貝殻を見つけたニアの手が、そこでようやく止まった。
「随分と信頼されてるようだが」
 ニアが光に透かそうと摘み上げたその貝殻の向こうには、太陽ではなくリュークが浮いていた。一瞬顔をしかめたニアは、 興をそがれたようにぽいと貝殻を捨ててしまう。
「話しただろう。死神は人間の寿命をもらって生きてるんだぜ。俺は気まぐれで、退屈は大嫌いなんだ」
 リンゴを頬張るくぐもった声には、それでも確かに迫力やおぞましさがあった。それが死神と言うものの、本質なのかもしれなかった。
「それはあなたが私を殺す、理由になっているとは思えません 」
 ニアはようやく顔を上げる。表情もなければ怖気もない目が 、リュークを見据えた。
「ここで私を殺したところで、あなたの退屈しのぎにはならない。むしろ私を生かしておいた方が、少しは面白いものが見られる。そう考えるのが自然です。リンゴも好きなだけ食べられるし、こうして海を見ることも出来た」
 リュークは海を眺めながら、芯だけになったリンゴにむしゃむしゃと齧りついた。
「死神はリンゴの芯まで食べるんですか」
「ん?ああ、芯まで食べろっていっつも言われてたからな」
 それに人間界のリンゴはジューシィで芯まで美味い、とリュークは耳元まで裂けた口をさらに大きく割り裂いて笑った。
「何故キラを殺したのですか」
 ひときわ大きな波が足元を洗って白く砕けた。
「それを訊くために俺をここまで連れてきたのか?」
「そういうつもりではありません」
 リュークに背中を向けてしゃがみこむと、ニアは砂浜に新たな貝殻を探し始めた。
「ただ、興味があったんです。気まぐれで退屈が大嫌いな死神が、何故海を見たがるのか。人の命をとって生きる死神の目に人間界は、我々はどのように映るのか。リンゴしか食べない物好きな死神は、デスノートを使って世界を変えようとした人間を見て、何を感じ、何を考えたのか」
 チャリ、と、貝殻をはじく音がする。気に入った形のものがなければ、何度でもニアはそれを繰り返した。
「お前、それ、本気で言ってないだろう」
 何の気もないような声で答え、背を向けたニアの正面に簡単 に回りこんでみせるリュークに、ニアの指先は再び止る。
「海を見たがるのも、ライトのそばにいたのも。頭のいいお前 なら、全部が退屈しのぎだって事くらい」
 わかってるんだろと言いながら、リュークはニアに、持って いた二つ目のリンゴを軽く放って見せた。
 ニアは受け取ろうと手を伸ばすことすらしない。ただ、ぎゅうと眉間にしわを寄せ、手足を縮こめるようにする。受け取るという挙動からは全く逆の動作を見せ、そうしてニアは動かな くなった。積んで遊ぼうともくろんだ、形の整った貝殻は結局 ひとつも集まらないままだ。
 そんな調子のニアの真横に、ぼとりとリンゴは落ちてしまう 。砂に埋もれかけたリンゴを、リュークは顔をしかめながら眺めた。
「あーあ、砂だらけ」
 お前ちゃんとキャッチしろよ。砂のついたリンゴなんて、死神界のヤツを思いだすと、上からぶつぶつ不平をもらすリュークにむかって
「私もあなたにとってただのたいくつしのぎ」
 うつむいたままニアは呟いて見せた。
「そんな風に扱われるのは、少し不本意だと思っただけです」
 それではキラと何も変わらないと、そう言うニアの口ぶりは 、少なくともジェバンニの耳には拗ねたような響きをもって届いた。死神は首をぐるりと回転させ、奇妙なポーズを中空でとり、
「俺は人間界のリンゴを誰かに分けてやったことはない」
そういった。
 そうして、その言葉にニアが即座に頭をもたげる様を、ジェバンニは確かに見てしまったのだ。
「ちょっと海の上、飛んでくる。じゃあな、」
 そんな風に言い残し、不意に空高く舞い上がって去る死神を 見送るのも、埋もれかけた赤いリンゴを、その小さな手の平でなでるのも。
   








TEXT


Moshikuwa,のつゆ太さん邸で飲み会したときに突然始まったOchawanの琴絵さんとのリレー小説です。
確か最初メロ模木で書こうとして、どうしても書けない!それならニアリュの方がましだ!という話の流れだったんじゃないかな…。
お互いに相手に尻拭いをおしつけあって書いたのがとても面白かったです。
ちなみに冒頭は私、末尾は琴絵さんですが、それ以外の場所はどっちが書いたかは内緒です。ふふふ。