恋するサカナ


 広いリビングの真ん中には、青く光る水を湛えた大きな水槽が設えられていた。
 水槽の中では、向かい合うようにして二匹の魚が戯れている。身体を翻すたびに白い鱗が銀色にきらめく。

 月は水槽を一瞥して腕を組むと、ミサに尋ねた。
 「ミサ、どうしたんだ?これ」
 「マッツーに買ってきて貰ったの」
 ミサは嬉しそうに笑ってそう言うと、月の右腕に抱きついた。
 「ね、ライト、このサカナ、キスしてるみたいに見えない?」
 「キッシンググラミーですね」
 月の左隣でまじまじと水槽を眺めていた竜崎が言った。
 「何だ?グラミーの一種?」
 「南洋産の熱帯魚です。食用にもなります。向き合って口と口を寄せ合う仕草から、キスする魚、キッシンググラミーという名前がつけられました。学名は Helostoma temmincki」
 「へえ、竜崎さん、よく知ってんじゃん」
 ミサは唇を尖らせてそう言うと、すぐに別人のように甘い目つきになって月を見上げた。
 「ねえ知ってる?ライト。
 このサカナって、二匹一緒じゃないと生きられないんだって。つがいの片方が死ぬと、もう片方も寂しくて死んじゃうんだって。
 まるでミサとライトみたいじゃない?」
 ミサもライトが居ないと生きていけないもの。
 そう言ってミサはくすくすと笑った。
 金色のツインテールが飛び跳ねる。ちらり、と出された舌が赤い。
 
 「残念ながら、その話は嘘です」
 竜崎は無造作にミサの話を否定した。
 「キッシンググラミーはつがいの片方が死んでも後を追って死んだりしません。新しい相手を見つけてつがいをつくります。それに、つがいになってキスしているように見えるのは、実はオス同士の縄張り争いの闘争行動です」
 「えええ?ウソ!なにそれ、それじゃまるで男同士の変態痴話喧嘩じゃない!」
 「そう言われると身も蓋もないですが」
 現実はそんなもんです。
 竜崎はそう言ってちらりと横目で月を見た。
 「もう嫌!竜崎さんなんて嫌い!」
 ミサは切れたように叫ぶと、荒々しく月の手を振り払って部屋を出て行った。松田を呼ぶ甲高い声が聞こえる。これから松田への八つ当たりが始まるんだろう。
 可哀相な松田さん。
 月は溜息をついた。
 
 ミサが出て行った後、竜崎は人差し指を銜えて少し首を傾げて見せた。
 「ミサさん、どうしたんでしょうね?」
 「怒ったんだろ。おまえが変なこと言うからだ」
 「ロマンティックな女性の夢を壊してしまった訳ですね。それは申し訳ないことをしました」
 よく言うよ、と月は内心呆れた。わざとだろ?
 「月くんは知りませんでしたか?」
 竜崎はへばりつくような姿勢で水槽の中を覗き込みながら、月に尋ねた。
 「キッシンググラミーの話?さあ…どこかで聞いたことあるような気もするけど」
 月は竜崎の隣に立つと、水槽の中を泳ぎ回る二匹の魚を眺めた。

 向き合って口をつつき合うその姿は、確かにキスしているようにも見える。
 鑑賞されるためだけに捕らえられ、水槽に閉じこめられた哀れな魚たち。
 この狭い水槽の中でぐるぐるぐるぐると果てしなく廻り続けて、いずれ死ぬ。
 安全で平和で退屈な、バランスド・アクアリウム。
 まるで私たちみたいじゃない?
 くすくすくす。ミサが笑う。
 ある意味、ミサの言うことは当たっている。
 
 「ミサさんともキスしたんですか?」
 水槽を眺めながら、竜崎は月に尋ねた。
 月は水槽を覗き込んでいた顔を上げて、竜崎を見つめた。
 「それ、尋問?」
 「いえ、話のついでです」
 「知りたい?」
 「いえ、別に」
 竜崎は熱心に水槽の中を泳ぎ回る魚を観察している振りをしている。
 月は魚影を追う振りをして竜崎の方に身を乗り出すと、その耳許に唇を寄せて小さな声で囁いた。
 「し・て・な・い・よ」
 鎖がたわんで、揺れた。
 竜崎は思い切り不満そうな表情で親指を噛った。
 「嘘、ですね」
 「あ、バレた?」
 月は竜崎から離れると、はははと笑った。
 「でも、キスだけだ」
 「月くんは嘘が上手ですね」
 竜崎は大きな黒目をぎょろりと動かして月を睨むと、苛々したように親指を囓りながら水槽の向こうへ回り込んだ。鎖がぴん、と張る。月は慌てて竜崎の後を追った。
 ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、竜崎は背中を丸めて水槽を眺める振りをしている。
 二匹のキッシンググラミーは水槽の中で向かい合い、瞬きもしないで愛情のない口づけを交わしている。
 
 「竜崎は魚に似てるね」
 「そうですか」
 「ほら、その目がそっくりだ」
 死んだ魚のような生気のない目。閉じられることのない瞼。
 捉えられない冷たい鱗。
 「でも、この水槽の中に居る魚は僕の方かもしれないけどね」
 月はそう言って水槽に手を当てた。
 冷たい水の感触が、ガラスを通して伝わってくる。
 捕らえられ、閉じこめられ、監視され、観察されているのは僕の方だ。
 自分が何者かもわからず、どこへ向かうのかも知らず、死ぬまでこの閉鎖空間でぐるぐると泳ぎ続ける哀れな魚。
 
 「違います」
 竜崎は感情の現れない目でじっと水槽の中の魚を見つめながら、低い声で言った。
 「あなたは、安全な水槽の中で飼われている無害な魚ではありません。私もまた、善良で親切な飼育員ではありません。あなたの棲む世界はもっと脆く、危険に満ちています。あなた自身も。忘れないでください」
 私はLです。
 竜崎は鎖をじゃらりと引き寄せると、月だけに聞こえる声でそう言った。
 「キラは捕まりますよ。必ず」
 「僕がキラなら?」
 「貴方がキラなら」
 竜崎は月の耳許で囁いた。冷たい吐息が耳孔を擽る。
 「いつか必ず私が捕まえます。貴方を」
 瞬きもせず唇を合わせる。
 月はその唇に微かな微笑みを浮かべた。
 「もし僕が死んでも、お前は生きていけるだろう?」
 「あなたの後を追って死んだりはしませんよ」
 そう願いたいなと呟いて、瞼を閉じた。
 吐息が急かされるように熱くなる。
 水槽の中では銀色の鱗をきらめかせた魚たちが、飽きもせず不毛な口づけを繰り返している。  









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