Seker


 「見事に腫れましたね…」
 竜崎は感心したように言うと、指を銜えて赤く腫れ上がった月の頬をしげしげと眺めた。
 「せっかくの奇麗な顔が台無しです」
 「誰が蹴ったと思ってるんだよ」
 月はそう言いながら頬を押さえて、その痛みに思わず顔を顰めた。ったく思いっきり蹴りやがってこの野郎と心の中で毒づいたが、それを認めるのは口惜しいので口には出さない。
 手錠生活が始まってちょうど10日目。ちょっとした諍いから竜崎と喧嘩になり、そのすかした顔面にパンチをお見舞いしてやった代わりに、月は右頬に強烈な足蹴りを一発喰らった。そのときから蹴られた頬は相当痛かったのだが、意地を張ってきちんと冷やさなかったのが災いしたのか、夜になってあっという間に腫れあがった。
 腫れた頬は熱を帯びて、まるで火傷でもしたかのようにちりちりと痛む。
 竜崎は頭を掻きながら、とぼけた顔で謝罪した。
 「すいません。月くんが案外強かったので、手加減出来ませんでした」
 「嘘だろ?」
 間髪入れずにそう断定すると、竜崎の目が少しだけ大きくなった。
 「殴り合いの時は互角だと思ってたけど…見ろよ、この頬。おまえは涼しい顔をしてるのに、僕ときたらこのざまだ」
 そういえばテニスの時もそうだったな、と腫れあがった頬の熱さを指先で確認しながら月は苦笑した。大学に入学して3日目、親睦を深めるためにという名目で竜崎とプレイした1セット。あのときも試合に勝つには勝ったが、月が汗だくになって息を切らせていたのに対して、握手した竜崎の手は冷たくてさらりとしていた。
 「ほんとは結構、手加減してたんだろ?」
 「…それはまあ」
 軽く肩をすくめるようにして竜崎は認めた。
 「手加減というか、死なない程度には抑えたつもりですが」
 「怖いな」 はは、と笑おうとした月の声は少し掠れた。
 「つまり、本気を出したら僕の頸くらいいつでも簡単にへし折れる、って訳だ」
 「簡単にとはいきませんが、不可能ではありません。コツがあるんですよ、そういう喧嘩のやり方にはね。強いとか弱いとかの問題とは別にして、目的に応じた方法というものがあるんです。それさえわかれば月くんにだって出来ますよ」
 「どうかな」
 「月くんは喧嘩、したことないでしょう?」
 今度は月が図星を指された番だった。
 「…記憶にある限りでは、ないな。喧嘩するほど熱くなるようなことは今までなかったから。本気の殴り合いなんて、初めてだよ」
 「初めてにしてはいい右ストレートでした」
 そう言って竜崎はにやりと笑った。
 つられて笑おうとしたとき切れた唇が攣れて、月は顔を顰めた。
 「痛みますか?」
 竜崎は身を乗り出すと、手を伸ばして月の頬に触れた。熱をもった頬に触れた竜崎の細い指先は氷のようにつめたくて、触れられた瞬間に月の心臓は跳ね上がった。
 「冷たいよ、竜崎」
 「月くんの頬が熱いからです」
 当然のように言って竜崎のさらさらと湿り気のない指が頬の上を滑る。骨ばった見た目よりも滑らかな指の感触は、その持ち主がこれまでおよそ肉体労働の類とは完全に無縁の存在だったことを想像させた。つめたい指が熱い頬に馴染んで熱を奪うと、ちりちりと焼けるような痛みが少しだけ和らいで心地よい。
 「唇、切れてますね」
 竜崎は唐突に僅か5センチくらいの距離に顔を近付けた。竜崎の奇妙な癖だとわかってはいても、この状況を誰かに見られたら勘違いされてもおかしくないなと月は思う。チョコレートの甘い香りがぷん、と漂った。きっとこいつとキスしたらチョコレートの味がするんだろうなと、月はぼんやりとミサとのキスを思い出しながら考えた。その唇の感触を想像さえした。そういえば、ミサの唇はストロベリーの香りがしていた。
 「まるでキスでもするみたいな距離だな」
 「しましょうか?」
 はは、と笑った唇に柔らかなものが触れて、離れた。
 薄皮が塞がったばかりの唇の傷の上を、竜崎の親指がなぞる。そのひやりとした指の感触に身体の奥がぞくりと疼いて、月は思わず目を細めた。
 「痛いですか?」
 僅かな反応にも目敏く気づいた竜崎は、舐めるような上目遣いで月を見た。
 「少し強く蹴りすぎたようですね」
 「もういいよ」
 手を振り払って逃げるように顔を背けると、月は立ち上がって唇を拭った。
 医者が患者の患部を観察するような目で僕の唇を見ていた。その視線は、人間というよりはまるで無機質の物体を顕微鏡で眺めるような視線でしかなかった。それ以上の感情などその視線のその唇のどこにも含まれていないとわかっているのに、その指の冷たさはそのまま彼の心の冷たさだと理性はそう言うのに、それでも心は動いてしまう。
 どうかしてるんだ、僕は。
 勢いよく擦ったせいで塞がりかけていた唇の傷がまた開き、咥内に血の味が広がった。甘い甘い、どろどろに溶けたチョコレート味の血の味。
 「…痛」
 月は小さな声で呟いて唇を舐めた。
 頬にちりちりとした痛みが戻ってきた。
 









TEXT

sekerはトルコ語で砂糖の意味です。