Ses
「夜神くん」
伊出がそう彼の名前を呼ぶとき、いつも彼は何か眩しいものでも見るように僅かに目を細めた。
そして伊出と目が合うと一瞬だけ戸惑うような微笑を浮かべて、それからすっと視線を逸らせた。
彼がそんな不思議な表情を見せるのは伊出が彼に呼びかけるほんの一瞬だけだった。他の誰に話しかけられても彼は絶対にそんな顔はしない。そして会話が始まればすぐに彼は冷静で職業的な表情を取り戻す。
「港区の汚職事件だが、至急裏を取って欲しいんだ。マル被の身内に一時MRをやっていた男がいて…」
仕事の指示を伝えながら伊出はさりげなく彼を観察する。
はい、ええ、わかりましたと彼は淀みなく受け答えをし、滑らかにペンを走らせ、的確にメモを取り、最後にうっすらと人当たりの好い微笑みを浮かべる。その物腰の柔らかさは警察官僚と言うよりはむしろ有能な銀行員かミシンのセールスマンのようにも見える。彼に微笑みかけられればおそらく老若男女誰もが好感を抱くだろう。
だがその笑顔よりも名前を呼ばれたときの眩しそうな表情の方が俺は好きだなと、その端正な微笑を見る度にいつも伊出は思った。
…もしかして、俺は好かれてるのか?彼に。
「まっさかー」
張り番のときつい口にしたその疑問を、松田は夜食のあんぱんを囓りながらげらげらと笑い飛ばした。
「ありえませんよソレ。伊出さんの妄想ですって」
「いや、しかしだな…」
「だって、何で月くんが伊出さんに好意を抱くんですか?そんなの、おかしすぎますよ。ぜんぜん理由がないですよ」
「…うむ…」
確かに理由はない。だが全くの妄想という訳でもない。伊出が名前を呼ぶときにだけ彼が見せる、眩しいような微妙な表情。
思えば初対面のときから彼の反応は妙だった。
初めて会った日、彼は情報通信課のコンピュータの前に座って神業のようなスピードでキーボードを叩いていた。
「夜神くん」
伊出がそう彼の名前を呼ぶと彼はひどく驚いたようにモニタから顔を上げ、切れ長の目を大きく見開いてぽかんとした表情で伊出を見つめた。
「夜神月くん、だろう?刑事局長夜神総一郎氏の息子の」
「確かにそうですが」
あなたは?と彼は動揺を隠しきれないようにパチパチと何回か瞬きして伊出を眺めた。
「警備局の伊出秀基だ」
元キラ事件関係者のと小さな声で付け加えると、ああ、と彼はようやく納得したように頷いて安堵とも困惑ともつかないぎごちない微笑を浮かべた。「かなりの切れ者」という評判にしてはあまりにも隙だらけなその反応と微かに紅潮した頬に、伊出は少なからず戸惑ったことを覚えている。
あの反応は一体何だったのだろう? 一目惚れ?
まさか。
それが伊出に対する好意から来るものだと勘違いするほど伊出はお目出度くはなかった。あるいはその逆で、一目で嫌われたという可能性も考えてみたがそれもまた根拠に乏しかった。いずれにせよ、その謎はもはや伊出の守備範囲を超えていた。しかし松田にそのことを言っても誤解を招くだけのような気がして、伊出は黙って缶コーヒーを飲んだ。
「伊出さん、月くんのこと気にしすぎなんじゃないですか?もしかして欲求不満?」
ギロリと凄みを効かせて睨むと囓りかけのあんぱんが松田の口からポロリと落ちて、ふんと伊出は鼻を鳴らした。伊達に公安に出向してた訳じゃない。
「馬鹿にするなよ松田。俺だってこう見えても彼女のひとりやふたり…」
「いないじゃないですか」
「…」
不愉快だが否定できない事実だ。
「伊出さん、大恋愛したことないでしょ」
だからわからないんですよと言って松田はへらへらと笑うと、膝の上に落としたあんぱんを拾い上げて大口を開けてかぶりついた。
まあ確かに、大恋愛をしたことは、まだない。大恋愛どころかごく普通の恋愛をした経験でさえも数えるくらいだ。それも過去の淡い経験をもし恋愛と呼ぶとすれば、の話だが。
警察の仕事は天職だと伊出は思っている。そしてこの仕事をしているとなかなか家庭を持とうという気にはなれない。それもいいかと正直思う。独り暮らしに不自由はないし特に寂しいと思ったこともない。それに昔から伊出には、誰かを好きになったり死ぬほど焦がれたりという感情がよく理解できなかった。別に否定するわけではないが、そうした感情はいつもどこか他人事のように伊出の隣を通り過ぎて行った。
松田が言うとおり、俺は多分、大恋愛には向いていないのだろう。
本屋で偶然彼に出会ったのは、梅雨が明けたばかりの土曜の午後のことだった。
吹き抜けになっている本屋の中二階から階段を降りていくと、ちょうど一階のレジで支払いをしている彼の姿が目に入った。
「夜神くん」
思わず大きな声でそう呼びかけると、彼はびくりと肩を震わせて左右を見回した。もう一度、今度は「月くん」と名前を呼ぶと彼は弾かれたように顔を上げた。目があった瞬間、彼はいつもより色濃く戸惑いの表情を浮かべたが、伊出がレジにたどり着く頃にはすっかりいつも通りの好青年の顔を取り戻していた。
「びっくりしましたよ」
彼はそう言って後ろめたさを隠すように愛想よく笑った。
「まさか休日にこんなところで伊出さんに会うなんて」
「俺も驚いたよ。職場の人間にここで会ったのは初めてだ」
「この店にはよく来るんですか?」
「地下鉄で一本だからな。月くんは?今日は珍しく一人なんだな」
「これから大学時代のゼミ仲間と飲み会ですよ。でも、その前に探したい本があったので」
そう言って彼は重そうな紙袋を持ち上げて見せた。勉強熱心な彼らしい。そうか、と伊出は頷いた。よければこの後お茶でもどうかと思っていたが、予定があるなら引き留めない方がいいだろう。
書店を出てとりとめのない会話を交わしながら、伊出は彼と並んでしばらく一緒に歩いた。さっき買った本の話、大学の話、仕事の話、それから天気の話。
「雨があがりましたね」「梅雨も終わりだからな」「これから暑くなりそうですね」「夏は暑いもんだからな」 そりゃそうですね、と彼は楽しそうに笑った。
伊出が何か言うたびにそんな風に彼は笑い、時折り礼儀正しく質問し、伊出の回答に感じのよい相槌を打った。彼の受け答えはいつも知的で機知に富み、的確だった。しかし彼と話すうちに伊出は次第に所在ないような気持ちが募るのを感じていた。文脈も言葉遣いもどれ一つとしておかしなところはないのに、彼の笑顔はまるで違う世界に属しているようにふわふわと宙に浮いていて捉えようがなかった。
俺の声を彼が聞いているのは確かだが、果たして俺の言葉は実際どこまで彼に届いているのだろうか?
伊出にはよくわからなかった。幻の的に向かって石を投げ続けている猿になったような気がした。伊出が口を閉ざすとぷつんと会話は途切れて、気がつけば地下鉄の駅まで来ていた。
このまままっすぐ行きますと彼は言い、伊出はそれじゃと軽く会釈して交差点の手前で別れた。
横断歩道を渡って振り返ると、信号待ちをしている彼の横顔が遠目に映った。背筋をすっと伸ばした長身は雑踏の中でもひときわ目に付く。伊出は足を止めて彼を見つめた。彼は信号の手前で立ち止まり、顔を上げて眩しそうに青空を仰いだ。まるで久し振りに返ってきた空の青さを懐かしむように。
まるで、その空の何処かに誰かを捜すように。
伊出は携帯電話を取り出した。電話番号を検索して発信ボタンを押すと、呼び出し音が二回流れた。はい、とマイクから落ち着いた声が聞こえた。伊出は電話越しに彼の名前を呼んだ。
「夜神くん」
一瞬、間が空いた。
交差点の向こう岸に目をやると、午後の眩しい日差しの中で携帯電話を片手に彼は立っていた。遠目に彼の表情は見えなかったが、それでも今彼がどんな顔をしているか伊出は明確に想像することができた。夜神くん、と伊出はもう一度彼の名前を呼んだ。それからゆっくりと確かめるように彼に尋ねた。
「…俺の声は、誰かに似てるのか?」
返事はなかった。
信号が青に変わっても、彼は横断歩道の手前で立ち止まったままだった。伊出は黙って彼の返事を待った。そのうち信号が赤になった。
長い沈黙の後、ええ、と彼は短く答えた。
誰に?
『…昔の、友人に』
そいつは死んだのか、と伊出は思った。
伊出は初めて会った日のひどく驚いた彼の顔を思い出した。それから非の打ち所のない彼の完璧な笑顔を思い出した。その致命的な落差に伊出の胸は微かに痛んだ。それは昔まだ伊出がずっと若かった頃に感じたような淡い痛みによく似ていた。
彼が聞いていたのは、俺の声ではなかった。
俺が彼の名前を呼ぶときいつも彼が聞いていたのは俺の声ではなく、もうここには居ない別の誰かの声だった。彼はいつも俺の声にその誰かの声を重ね、俺の声を聞きながらその誰かのことを想っていた。それで彼はいつも、あんなにも眩しいような、懐かしむような顔をして俺の声を聞いていたのだ。俺の知らない誰かの声を思い出しながら。
どうしてそれほどまでに強く、焦がれるように誰かを想うことが出来るのか。何故いつまでも失われたものを追い求め続けることが出来るのか。伊出にはわからなかった。それが彼の若さなのだろうか。それとも誰もが皆、心の底ではそんな風に誰かを捜し求めているのだろうか。たとえばそれが松田でさえも?それが恋愛というものなのだろうか。
伊出にはよくわからなかった。友情にせよ恋愛にせよ、それらの感情はいつも風のように伊出の側を通り過ぎて行くだけだった。
伊出は黙って電話を切った。
信号が再び青に変わると同時に、彼は頭を上げて横断歩道を渡り始めた。最後まで彼は一度も振り向かなかった。交差点を渡るまっすぐな背中は雑踏に紛れてやがて見えなくなった。
その後、彼とそれについて話すこともないまま彼は死んだ。
結局、その昔の友人というのが誰だったのか、今でも伊出は知らない。
TEXT
Sesはトルコ語で「声」の意味です。
蛇足説明:この話では、伊出さんは第二部からキラ捜査に加わったということになってます。つまり、竜崎とは面識なし、ということです…。