平安死帳絵巻
巻五 名前
松田が恐怖のあまり眼を閉じた瞬間、全身が仄かに輝いたような気がした。
そして、地の底から這い出るような悲鳴。
怖々と目を開いた。
「…何故だ…」
鬼は怜悧な顔に憎悪を剥き出しにし、金色に輝く恐ろしい眼で松田を睨んでいる。
「見えぬ!おまえの名前…わからぬ…何故だ…おのれ、貴様何をした!」
松田はじりじりと後ずさった。丸腰で手足の自由を奪われていては逃げるしかない。
「…まさかその呪、ただの姿隠しではなく…おお…」
錯乱したように鬼は叫び、髪を掻きむしり、巻物を振り回した。
「ならば巻物など遣わずとも、この手で貴様を屠ってくれようぞ」
鬼が一歩、足を踏み出した。
「退がれ、綺羅」
ふわり、と風に舞う白い衣が松田の剥き出しの肩に触れた。
「この男には指一本触れさせぬ」
「竜崎!」
松田は叫んだ。
竜崎は鬼の前に立ち塞がり、手にした銀の匙を煌めかせていた。
その匙から放たれる眩しい光に、今や完全に物の怪の正体を現した鬼が一瞬、怯んだ。
「綺羅。いや、刑部省大判事魅上。神妙にしろ」
「陰陽師、か」
くくく、と鬼は不気味に笑った。
「…成程。その男に妙な呪をかけたのはおまえか」
「魅上。何故、鬼となり人を殺める。かつて刑部省の役人として公明正大に罪人を裁いていたおまえが」
「さればこそよ」
魅上、と呼ばれた鬼は苦しげに顔を歪めた。
「我はこれまで帝の治天の安からんことのみを願い、貴賤の別なく平等に罪の重さを量り、罪人を裁いていた。…だが、帝に対する謀反の疑いで遠流を命じたある貴族が、それを恨みに下賤の者を使い我が母を殺した」
そう言って鬼は母を思い出したか、おおう、おおうと血の涙を流した。
竜崎は眉一筋動かさず重ねて問うた。
「多喜の大臣を殺したのは何故だ」
「彼奴めが我が母を殺した貴族を庇うたからよ」
鬼の眼は金の炎を怒らせた。
「刑部卿という身でありながら、畏れ多くも帝に楯突こうとした謀反人を、証拠がないというただそれだけの理由で釈放した。我は許せぬ。無実の母を殺し、無辜の民を脅かし、安穏と栄華を貪る輩を。我が鬼というなら彼奴らこそ鬼ではないか」
鬼は吠えた。空気がびりびりと震える。
「…母を殺した者に復讐すると誓った私に、神は力を与えたもうた」
鬼はそう言うと、手にした巻物を恍惚とした眼差しで愛撫した。
「我を邪魔する者は皆、殺す。この巻物に名前を書かれた者は、命を失う。陰陽師、おまえの名は先ほどそこな男が教えてくれたわ。まずはおまえからだ。おまえを屠ればあとは赤子の手をひねるより容易い」
「巻物に私の名前を書いても効果はないぞ」
鬼の顔がさっと陰った。
「…偽名か」
松田は驚いて竜崎を見上げた。
鬼は、にやりと笑った。
「ならばその男から始めようぞ。おまえの真の名を知るのは容易ではなさそうだが、そちらの男は先ほど口をきいたお陰で呪が破りやすくなったわ」
松田はひぃっと叫んで竜崎の衣の裾を掴んだ。
「りゅ、竜崎…!」
助けてくださいと眼で訴えかけると、だから喋るなと言ったんですと苦々しく舌打ちして、竜崎は印を結んだ。
「魅上。この男に罪はない。見ればわかるだろうが、この男、女も犯さず人も殺めず盗人でもない。そんな度胸もない。無実の者を殺せばおまえもまた、母御を殺した者たちと同じ地獄へ堕ちることになる」
「構わぬ」
鬼は耳元まで裂けた唇を長い舌でべろり、と舐めた。
「我は地獄に堕ちようとも、神がこの腐った世を正しく治めてくださる。我を邪魔する者は皆、正法の世を創る神に逆らう者。削除あるのみ」
金色の目が爛、と輝いた。
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つづく》