平安死帳絵巻
巻四 闇
ひたひたと、黒い影が、京の夜道をゆく。
都といえど、月の光も差さぬ闇夜は暗い。
だが、かつて何度も歩いたこの道を、迷うことはない。
もうすぐだ。
もうすぐ、おまえに裁きを下してやる。
闇の中で、怪しく瞳が光る。
遠くで野良犬の遠吠えが聞こえる。
検非違使庁の牢屋の中。
「綺羅が来る」
と竜崎が言ったきり、動きはない。
顔色の悪い陰陽師はとんとん、と裸足で床を踏みしめると、再び紙で出来た人形に戻った式神を懐に仕舞った。
松田は不自由な姿勢のまま、引き攣った笑いを陰陽師に向けた。
「…や…やだな竜崎、脅かさないでくださいよ…何も来ないじゃないですか」
し、と竜崎は唇に指を立てた。
足音がする。
いや、それは足音、ではない。
ひたひたと、なにものかが近づく、気配だ。
何があっても絶対に喋らないでください。
竜崎は松田に耳打ちして、素早く物陰に退いた。
ひた。ひた。ひた。
ぴたり。
と闇を引き摺るようなその気配は、牢の前で、止まった。
冷たい水のような空気が、闇が、毛穴からぞうっと染みこんでくる。
がちゃり、と鍵が外れる音がして、それは現れた。
黒の袍。単。指貫袴。
黒の冠を正し、恭しく巻物を捧げたその男は、鬼、と呼ぶにはあまりに整然としすぎている。
松田は安堵した。
この装束は、刑部省に仕える文官のもの。恐らくは、罪人を取り調べに来たのであろう。綺羅ではない。
そもそも、松田の姿は竜崎のかけた呪によって見えなくなっている筈。
しかし、闇をまとったような黒衣の官吏は、一歩進んで足を止めた。
「…ほう」
冷ややかな目で松田を見下ろすと、にやり、と口の端が裂けた。
「姿隠しの術か。…つまらぬ呪い師のよく遣う手よ」
見えている。
人とは思えぬ邪悪な笑みに、粟立つような鳥肌がざあっと全身を駆けめぐった。
やはり、これは鬼。
「そんな呪でわたしの目が欺けると思ったか。…愚かな」
思わず顔をあげると、鬼と目があった。漆黒の闇のように暗く冷たい瞳が松田を見据える。金縛りにあったように、身体の自由が効かない。松田の額に汗が浮かんだ。
竜崎の呪は全く効果がなかったのか。
考えてみれば、あんな馬鹿ばかしい写経ぐらいで姿が見えなくなる訳がないのだ。
呪いなんてものを信じた自分が馬鹿だった、と松田は心の中で己と竜崎を呪った。
「おまえの名は」
鬼の問いかけに、松田はわななく唇を必死で固く閉ざした。
「…答えぬか。それとも恐怖で舌すら凍り付いたか」
額から脇から冷たい汗がいくすじも滝のように流れ落ちる。
鬼はそれを見て、ふん、と笑った。
「この程度で青くなる小者が綺羅を騙ったか」
下衆めが、と吐き捨てる。
「よかろう。おまえの名など、訊かずともわかる。神仏より授かりしこの眼で見ればたちどころに、な」
鬼は手にした巻物をさらりと広げ、恭しく奉じた。
眼が、禍々しい光を放ち金色に輝いた。
「削除」
《もどる
つづく》