平安死帳絵巻
巻三 写経
*微妙にえっちぃ警報発令中
綺羅が、捕らわれた。
瞬く間にその噂は京中を駆けめぐった。
しかも、娘を襲い金品を強奪し逃げようとしたところを、検非違使に捕らわれたという。
綺羅への信仰は、瞬く間に失望へと変わった。
その失墜を、顔を顰めて眺めていた者が、宮中に居た。
黴臭い湿った空気が澱んでいる。
検非違使庁の牢の一つ。
そこに、検非違使少尉松田が転がって居た。
後ろ手に戒められ、松田は検非違使としてではなく罪人として牢に放り込まれていた。
単衣一枚の惨めな姿で、髪は乱れ、烏帽子も取り上げられている。
申の刻が過ぎた頃、だったか。
忽然と牢の中に姿を現したのは、二人の童子を伴った陰陽師だった。
「松田さん、大丈夫ですか」
「り、竜崎」
松田は不安と疲労で困憊した顔をあげた。
「大丈夫じゃないですよ。もう死にそうです…」
「なるほど、大丈夫なようですね。では始めましょうか」
竜崎は傍らの童子に命じると、筆と硯を用意させた。
くろぐろと墨を含ませた筆を片手に、ふわり、と直衣の袖を返して松田の前に座り込む。
「脱いでください」
「え、ちょっと待っ…竜崎、ああっ、何するんですか」
松田は悲鳴をあげた。
竜崎が有無を言わさず、松田の着物の前をはだけたのである。
抵抗しようにも両手は後ろできつく縛られ、指一本動かせない。
しかも、二人の童子が両脇から身体を押さえつけている。子供だというのに、信じられないくらいの力だ。
いや。これは子供ではない。式神である。
(ああ母上…すみません…)
松田は目を閉じた。
「何考えてるんですか松田さん」
竜崎のうんざりしたような声に、松田は我に返った。
「勝手に妄想しないでください。まじない、ですよ。これからあなたの身体に、怨霊よけの呪を書くんです」
「…怨霊よけ?」
「今夜、綺羅が松田さんを殺しにやってきます」
松田はひっと声にならない悲鳴をあげた。
「松田さんは婦女暴行強盗殺人の重罪人です。しかも綺羅の名を騙って捕らえられた。これを潔癖な綺羅が許すわけがない。 必ず松田さんを殺し、松田さんが綺羅ではないという証をたてに来るでしょう」
そこを捕らえます、と竜崎は言った。
「…じゃあ、僕は囮…」
「そういうことです」
竜崎は頷いた。
「しかし、それで松田さんが殺されてしまってはあまりに申し訳ないので、松田さんの本当の姿が綺羅から見えぬよう、呪をかけます」
「呪…」
「全身に経文の文字を書きます」
姿隠しの術。
松田は、ようやく合点した。
竜崎が策があると言っていたのは、これだったのだ。
式神を気味悪がる松田にとっては、呪も怪しいものに変わりはない。
出来ればそんなものに関わりたくはない。
しかし、事ここに至っては陰陽師に頼るより他に助かる途はなかった。
松田は、観念した。
ぶつぶつと呪文を唱えながら、竜崎はさらさらと松田の額に筆を走らせる。
薄皮一枚の上でまるで生き物のように筆がうごめく。
「…くすぐったいです、竜崎…」
「我慢してください。動くと文字が乱れて、呪になりませんよ?」
ぴしりと言って、竜崎は再び筆を構えた。
最初は額。頬。顎。首。肩。腕。背。胸。腹。
竜崎の手によって次々と松田の浅黒い肌に呪の文字が鮮やかに浮き上がる。
文字という紋様によって彩られる肌は異様でもあり、また美しくもあった。
その紋様を描き出す竜崎の動きもまた、舞うような美しさがある。
墨を含んだ筆が皮膚の上を滑る。
竜崎の息遣いを、感じる。
「…あ」
松田は思わず声をあげた。
「何、今の声」
「変な声」
式神たちは互いに顔を見合わせてから竜崎を見上げた。
「弐亜、芽呂。もういいですよ」
竜崎が言うが早いか童子の姿は消え失せ、二枚の人形だけがひらひらと松田の腹の上に舞い落ちた。
「松田さん」
竜崎はじろりと松田を見下ろした。
「こんなことでいちいち感じないでください。気が散ります。式神の教育にも悪影響を及ぼします」
「…すみません…」
松田は下を向いて自分でも赤くなった。
それについて竜崎が全く意に介さないのが、かえって恥ずかしい。
「まあ我慢しろと言っても無理かもしれませんが。生理現象ですからね」
「……あっ。そ、そんなとこまで…っ。あ、そっ、そこは竜崎、さすがに…だ、だめです。自分で書きますっ」
「綺羅に引っこ抜かれたいんですか?」
「…いえ、お願いします」
もはや、今の松田は全てをこの陰陽師に委ねるしかなかった。
やがて足指の先まで経文を書き終えると、口内で呪文を唱えて筆を置いた。
「終わりました」
竜崎は立ち上がり衣の裾をはらった。
「松田さん。単衣を着てください」
「そう言われても…」
手は縛られたままで動かせない。
竜崎は軽く舌打ちしてふたりの式神を再び呼び出すと、松田に着物を着せてやるよう命じた。
「急いでください。弐亜、芽呂」
竜崎は黒目を左右にせわしなく動かして、親指の爪をがりっと噛んだ。
「来ます」
牢の空気が、変わった。
《もどる
つづく》