平安死帳絵巻
 巻二 鬼



 ひたひたと夜の闇を、馬に乗った男がゆく。傍らには御徒の小者を一人、連れている。
 馬上でふらふらとしているのは、酔っているのか。
 大きな声では言えない場所からの帰りのようだ。
「待て」
 声がして、男は馬上で振り返った。
「刑部卿藤原多貴邑だな」
「…お、おまえは…」
 綺羅だ。
 そう答えて鬼はニイッと目を剥いた。


「…そして、やはり死体には鬼に喰らわれた形跡はなく、ただ胸を掻きむしったような痕があった、と…」
「そうなんです。そしてこれもやはり他の犠牲者と同様、鬼を見た恐怖で顔が別人のように歪んでいたそうです」
 牛車の中で、松田は水飴を舐めている竜崎に昨夜の事件を説明していた。
「小者はどうしました」
「生きてはいますが、頭がおかしくなっているようです。筆が、巻物が、とうわごとを繰り返すだけで」
「…それで?」
「…それだけです」
 牛車がぎしぎしと揺れて、止まった。
「竜崎。やっぱりその、烏帽子もつけないで参内するつもりですか?」
 おそるおそる松田は訪ねた。
 竜崎は、と見ればくろぐろとした髪を風になびかせた蓬髪で平然としている。しかも、裸足だった。
「烏帽子をつけると呪の力が40%減ですから」
 もじもじと恥ずかしそうな松田を尻目に、竜崎は牛車を降りるとさっさと御内所へ向かった。


 今上帝は、御年18の若者である。
 まだ振り分け髪の童子であった頃から、その輝くばかりの美貌で夜空すら明るく照らす「月宮」ともてはやされた。蹴鞠・載り馬では宮中に並ぶ者とてなく、その博識は博士ですら舌を捲くほどであったという。
「竜崎か」
 御簾の奥より発せられた声は、竜崎の予想を遙かに超えて涼やかだった。
「刑部卿の件、どう思う」
「鬼は、宮中に何らかの関わりがある者かと」
 ぴたり、と扇子を使う音がやんだ。
「僕もそう思っていた。竜崎、鬼は人か」
「以前は人であった者、かもしれません」
 竜崎は答えた。
「しかし、もはや人ではないでしょう」
 御簾の内から再び扇子を使う音が微かに聞こえてきた。
「…策はあるのか」
 はい、と竜崎は頷いた。


「いやー、僕緊張しましたよ。主上の声なんてきいたの初めてです…カッコよかったぁ…」
 帰りの牛車の中、松田はまだ興奮から冷めやらぬ顔でうわずった声をあげた。
 竜崎は黙ったまま膝を抱え、爪を噛んでいる。
 松田は、ふと心配になって竜崎の顔を覗き込んだ。
「竜崎。ほんとうに策なんてあるんですか?」
「あります」
 竜崎の黒い瞳がひた、と松田を見た。
「そのために、まず松田さんを捕まえます」
 松田は首を傾げた。
「え、なんで僕が?」
「そうです松田さん。あなたは綺羅の名を騙り、罪のない女性を犯した上に殺害し、金品を奪って逃走した大悪人です」
「ちょ、ちょっと待ってください竜崎。僕はそんなひどいことした覚えは」
「なくても、やってもらいます」
 竜崎はむず、と松田の衣の裾を握った。
 






《もどる  つづく》




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