平安死帳絵巻
 巻七 呪



 綺羅事件が解決してから、半月。
 静けさを取り戻した京師の外れにある屋敷の門を、若い検非違使は片手に籠をぶらさげてくぐった。
 簡素な庭は、好き放題に夏草が生い茂っている。

 「それで」
 と、円座の上で膝を抱えて陰陽師は尋ねた。
 「賊は捕まりましたか?」
 「はい。昨夜、六条の辻の屋敷を出てきたところをとっ捕まえてやりました。ひどい奴ですよ。綺羅…いや、魅上照の母親だけでなく、他にも大勢の女子供を襲っては殺し、羅生門やら鳥野邊に捨てて、衣服を売り払っていたようです。まだまだ余罪もありそうですし、全部吐かせてやりますよ。絶対に死罪です」
 松田は、憤慨したように声を荒げた。

 六条の辻の屋敷。
 謀反の疑いをかけられた貴族の邸宅。
 その貴族を庇っていた多貴の大臣は魅上に殺された。

 竜崎は黙って親指を咥えると、ふと松田が手にした籠に目をとめた。
 「…その籠、何ですか?松田さん」
 「え、これですか?これはですね」
 松田は嬉々として竜崎の前に籠を置いた。
 「焼き葛です。綺羅事件解決のお礼にと、庁官、いや長官が…」
 「夜神さんからですか。…刑部卿になられたそうですね」
 おめでとうございますと言って、竜崎は指の先で器用に焼き葛を摘んだ。
 大きな口を開けて頬張る。
 「美味しいです」
 もぐもぐと菓子を頬張るその姿は、綺羅を退治したときの鬼神の姿とは別人のように幼い。
 だから松田も、あの事件後もごく自然にこの不思議な陰陽師を訪れることが出来る。

 松田は馴れた図々しさで菓子をねだった。
 「竜崎、それ美味しそうですね。僕にも一個くださいよ」
 「松田さん、あなた綺羅事件解決のために何もしてないでしょう」
 「そりゃ、してませんけど…あ、でも、僕だって頑張って囮役を務めたじゃないですか!それに、竜崎が僕にかけた呪いだって、全然効き目なかったですよ。僕の姿、綺羅に丸見えだったじゃないですか」
 「そうでしょうね」
 「そうでしょうね、って…」
 「あれは姿隠しではなく、名前をわからなくするための呪ですから」
 口の周りについた粉を親指で拭きながら、竜崎は言った。

 「名前?名前がそんなに大事なんですか」
 「松田さん」
 「はい」
 「そうやって名前を呼べばあなたは返事をするでしょう。そういうことです。名前を知ることで、相手を支配することが出来る。呪の基本中の基本です」
 「…なるほど」
 竜崎は二つ目の焼き葛に手を伸ばしながら言った。
 「松田さん。魅上が巻物を手にしていたのを覚えていますか?」
 「ああ、魅上が消えた後に残ってたアレですか?このまえ帝に献上した…」
 「そうです。無理矢理献上させられたアレです。あの巻物に名前を書くことで人の生死を操ることが出来ると魅上は言っていた」
 「そういえば…」
 「恐らく魅上は何らかの偶然であの巻物を手に入れた」
 偶然かどうかはともかく、と竜崎は指先についた葛の粉を舐めながら、心の中で呟いた。
 「それで、魅上は狂ってしまったんでしょうね。母親の敵だけでなく、あらゆる罪人を己の怒りのままに殺そうとし始めた。もともと罪人を裁く仕事をしていたのも災いしたのでしょう」
 竜崎はそう言って庭を眺めた。
 いつの間にか夕暮れた庭に、迷い込んできた蛍が二、三匹、光を放っていた。

 蛍のお陰で情緒漂うようになった庭を眺めつつ、松田は尋ねた。
 「…それで、結局、魅上は鬼ではなく人だったんですか」
 「鬼はもともと人であったものも多いんですよ。松田さん。人の情念が凝り固まって鬼となる…」
 「…なんだか、可哀想ですね」
 竜崎はちらり、と横目で眺めた。
 「魅上は、母親を殺されたんでしょう。何も悪いことをしていないのに…恨みに思う気持ちもわかるじゃないですか」
 「松田さんはお人好しですね」
 「そ、そうですか?」
 「だって魅上はあなたを殺そうとしたんですよ。いえ、私が止めなければ確実に殺されていました」
 「そうですけど…」
 松田は困った顔で目を伏せると、突然思いついたように明るい声をあげた。
 「そうだ、竜崎。僕にも呪文、教えてくださいよ」
 何を言い出すのかこの男。
 陰陽師の眉間に深い縦しわが寄った。
 「ほら、竜崎がこないだ魅上相手に唱えてた奴とか」
 「長いですよ?あれを一言一句意味を理解した上で間違えずに暗唱できますか松田さん」
 「う…そ、それじゃ、竜崎が僕に書いてくれた、名前がわからなくなる呪いとか。今度は僕が竜崎に書いてあげますよ。次こそ僕が竜崎を守れるように頑張りますから!」
 「…あれは呪を理解しているからこそ効果があるので、松田さんが私に写経してくださったところでくすぐったいだけで何の効き目もなさそうですが…」
 「あ、そうですか…」
 松田はがくりと肩を落とした。
 「しかし、松田さんがどうしてもと言うならば、写経の呪の書き方くらいは教えてさしあげてもいいですよ?」
 「え?…ええと…」
 混乱する松田の前に菓子を咥えて、竜崎はしゃがみ込む。
 面白がるように目を光らせ、陰陽師は言った。
 「気持ちよかったんでしょう?」
 






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