坂の下
静かな秋晴れの午後、夜神総一郎は半日だけの休暇をとると、警察庁の誰にも言わずたった一人で駅に向かった。
霞ヶ関から地下鉄に乗り、途中で一度乗り換えてから電車を降りる。駅前にある花屋で白い花束を買い、緩やかな坂道を少し上ると、そこには小さな教会があった。
ここに来るのも3度目になるのか、と総一郎は去っていった月日を数えた。うっかりすると見落としてしまいそうな古びた教会には、3年前と同じく年老いた神父が一人居るだけである。
小窓の向こうから会釈する総一郎の姿に気付くと、神父は立ち上がって扉を開けた。
どうぞ、お待ちしておりましたと言って神父は少し微笑む。総一郎は花束と薄い封筒を神父に渡すと、質素な祭壇の前に立った。慣れない手つきでロウソクを灯し、頭を垂れてしばし黙祷する。神父は謹厳実直そのものといった総一郎の後姿を、ただ黙って見守っている。
総一郎はキリスト教徒ではない。しかし、異国の友人を弔う場所として自宅の仏壇はあまりにそぐわない気がして、3年前、総一郎は知り合いの紹介で初めてこの教会を訪れた。以来、彼らの命日はここで祈ることにしている。
思えば不思議な縁だった。
ワタリ。そして、L。
生前、総一郎がそう呼んでいた彼らの名前はいずれも本名ではない。ワタリの本名は後から知れたが、結局Lの素性は死後も明らかにならなかった。彼らの墓を日本に作るように依頼した者はいなかったし、遺体は秘密裏に故国イギリスへと運ばれた。
だからこの教会にも彼らの墓はない。総一郎は、ただここを訪れて彼らの冥福を祈るだけである。
「朝日さん、コーヒーはいかがですか」
秋も半ばにさしかかった長い夜、ワタリは老執事と呼ぶに相応しい上品な物腰で暖かなコーヒーを夜神総一郎の前に置いた。「朝日」とは総一郎が捜査本部で使用していた偽名だったが、もはや誰も偽名を使わなくなっていたその頃でさえも、ワタリだけは律儀に総一郎のことを朝日と呼んでいた。
総一郎はカップを取り上げると、立ち上るコーヒーの香りを吸い込んで深いため息をついた。ほろ苦いコーヒーの香りがささくれだった神経を少しだけ和らげる。
そのため息をきいていたワタリが失礼ですが、と総一郎に話しかけた。
「朝日さんは些かお疲れのご様子。少し休まれては…今夜の不寝番は私がいたしましょう」
「いやワタリ、あなただって疲れているはずだ」
「朝日さんは昨夜もお休みになられていない筈。今日は竜崎や月さん、本部の皆様も先に寝んでおられることですし、貴方もどうぞ」
普段は無口なワタリだけにその発言には重みがあって、総一郎は珍しく素直に頷いた。
「それでは今夜の当番は貴方に替わっていただこう。その代わり…と言っては何ですが」
総一郎は空になったコーヒーカップを置いて立ち上がった。
「コーヒーの御礼に、たまには私がお茶を淹れましょう。私が淹れられるものときたら、ただの番茶ですが」
ワタリの顔がほころんだ。
「朝日さんがお茶を淹れられるとは」
「これでも若い頃は自分で何でもやったんですが、今では全て妻にまかせっぱなしになってしまい…」
よく我慢してくれています、と総一郎は薬缶を火にかけながら苦笑した。ワタリはゆっくりと頷いた。
「朝日さんは素晴らしいご家庭をおもちです。明るく優しい奥様と、可愛らしいお嬢様。そして、優秀な息子さん」
総一郎は番茶を湯呑に注ぐと、ワタリに差し出した。
「…自慢の息子です」
それは本当のことだった。
夜神家の長男として厳格に育てられた総一郎の目から見ても、月は非の打ち所のない真面目な息子だった。まだ幼い頃から、我侭やつまらない悪戯で息子を叱った、という記憶が総一郎には一切ない。妹の粧裕の面倒もよく見たし、優しくて正義感が強く、誰からも好かれる子だった。月を知る者は皆、誰もが彼のことを絶賛した。
真面目で、礼儀正しく、優秀。
しかし、いわゆる天才というのではない、自分と同じくコツコツと真面目に努力して積み上げていくタイプだと総一郎は思っていた。曲がったことが嫌いで、むしろ潔癖なくらい嘘や不正を憎んでいた。学生時代の恩師は「夜神君の若い頃にそっくりだ」と言って月を激賞した。悪い気はしなかった。自らが正しいと信じて歩いてきた道を息子が辿ってくれることが誇らしかった。
それが何故、こんな疑いをかけられることになってしまったのか。
わからない、と総一郎は膝の上で強く拳を握り締めた。
NEXT≫
L追悼…のはずが、何故か夜神パパとワタリの夜咄です。長い。
続きます。
TEXT